昭和42年03月27日 朝の御理解
ここんところ、毎日、5人6人の人達が、ここの参観に見えます。咋日も、久留米の市会議員のジュウナカ(十中)と言う方が見えられました。是非近い内に、市長の井上というんですかね、久留米市長と伴うて来たいと思うから良いでしょうかと言うて、大変、ここの建築の行き届いておること。もちろん誰でも、悪いとは言いますまいけれども、心から、そのことを言うて帰られましたんですけれど。
その方が一番夕方からでしたから、私がずっといっぺんそして私の一番奥の部屋の、私の部屋でお茶でも差し上げたんですけれど。もう不思議にですねお道の話が次から次に出るんですね。それでもう自分でも初めてお会いするのにどうしてこんなに、この信心の話が出るのだろうかと自分でも思ってえらい説教がましくなりましたね。と言うてその止めておると又次にまたお説教なんです。
お説教と言うよがその御理解なんですね。しかも私自身が頂かせて貰わんならんようなお話が出るんですよ。特にこの名前がジュウナカ(十中)、私がこの先生のこの御紋と言うのは、これは天満宮さんの御紋と同じですね、と言う様な事からです。そして私の方の紋はまるじゅう、丸に梅鉢の梅の紋ですけれど。この由来を私話したんですね。そしたらもうえらい感激されるんですね。
実は私は善導寺の木塚のもんですけれども。実は私の姓はだいたい田中と言うんです。ところがその田中の田という字をですね枠を取ったんです。あなたのもこらなかなか変わった名前ですけれども。これがその大体田中と言われるからそれならこの枠を取られたんですねと言うたら、「もうそうです」と言うてそのまたそういう様な事から、それで中が十中というだから名刺にじゅうなかと、仮名遣いがしてある。
そう言う様な事から話が合うというか、なんか初めて会った様な気持ちがせず。だけではなくて、ここの信心のまあ言うなら、神髄と思われるような話が出るんです。私は今日は不思議でたまらん、どうしてだろうかとこう言うてその、話しておりましたらこういうことを言られるんですね。実は先生こちらに参ります時に大変おかげを頂いて、まぁここの言葉で言うならおかげを頂きましたち言う。
これは金光様に私がお参りしよってでなかったら、今日は大変な大難じゃったじゃろうと言うて、他の方達と話して参りました事でございますがと言うて、その久富建設の正義さんが連れて参りましたでしょうと言うてその、話しておられましたが。なんか久大線を踏み切られる時にですね。久大線の軌道の中で自動車が止まったんだそうです。それがあなたもう100メートル先に来とるそうです機関車が。
もうそれこそどうして動いたか自分で覚えない。ところが抜けたと同時に後ろをゴーと汽車が通った。こら今日はもう椛目に行くでなからにゃ、大変な難儀じゃっとるばいと言う話をされるんですね。はぁそこで私は思うたんです今日は命拾いした。こういう様なですね。それがその一つの清めになっておるんですねその人達は。いわゆる清まっておられるんです。はぁ今日は命拾いしたと。
まあお道流に言うならおかげ頂いたという、その気持ちが私がお話を次から次ぎとさせて頂いても、何かしらんその本当によく出る水を、泥に水を打つようにです沁み込んでいくような感じなんです。お互いがまぁ色々分からせて頂かなければならんことは、本当にあのいくらお話をこの人にしなければならんと思うて、お話をしましてもコンクリーの上に水を撒くようにひとつもお話が染み込んでいかない人もあります。
けれどもそういう全然信仰もない方ですけれども。今日はおかげで命拾いしたという様なその思いがですね。その人を私は清めたんだと思う。そこに私のお話が次から次と相手の方に降り注ぐようにですね、お話が出たんではなかろうかという風に思うんです。私今朝これは椛目の時代に、以前はすぐ裏にテレビがない前はラジオでしたから、ちょうど朝の御祈念の時分に皆さんもご承知のようにラジオをじゃんじゃん、じゃんじゃんかけられるんですから。
実を言うたらどうでも御祈念がし難い所なんですけれども。私はそのラジオが鳴り出しますと、何か一つのラジオの調子というか、リズムにこう合わせたような御祈念が出来たんです。一つも邪魔にならんかったんです。自動車が通ってもどんなに雑音の中でも、その御祈念が出来たんですけれども。今朝だけは何か御祈念がし難いんです。だからその辺が漏っておるんですね。雨漏りが。
それもそのぽつんぽつんとこう時間をおいた、一つのリズム感があるんですから、そのリズムに乗って御祈念したらよかろそうなもんだけれども御祈念がし難いです。どこにそれが原因があるだろうかと、私は思うんですね。はあこれは新築の、折角のこの、内殿にですね、雨漏りがして、シミが入ったりしてはいけないという様な思いがあるからだと、私は思うたんです。
自分のその一つの利害関係というものが、一つのそういう感情と言うものが、その中にあるからどうしてもその、いわばスムーズな調子に乗って、御祈念をすると言ったような御祈念が出来ません。それはここは椛目よりも静かですし。御祈念も確かに有り難い御祈念が出来るんですけれども。今日はこらまぁ一遍御祈念をやり直さんならんという様な気がするんです。
いわゆるそのポツンポツンというその落ちる雨垂れ雨垂れじゃない、雨漏りの音がどうも邪魔になるんです。その話とこの話を一つ思い合わせてみてですね。お互いがそういう感情利害関係というか、そういう様なものがあっては、神様へ心が通わないという事ですね。無心にならなければならない。どういう例えば神前に向こうてからはです。たとえ槍先で突かれるようなことがあっても、後を振り向いてはならんぞという風に教えておられるのに雨漏りの音を聞いて、どうもそれが気になってたまらない。
そこに私のですねはぁここに雨漏りがするごとあるなら、こりゃシミがつきゃせんじゃろうかと。それがどうも御祈念が出来なかった原因の様にあります。御理解を頂くと言うてもです。本当に私共がです心からおかげを頂きたいと願う心は、本気で私共が清まらして頂こう本気で分からせて頂こうという願いをもって、御理解を頂くならばその御理解がです。それこそ、沃土にお湿りを受けるような。
それこそそんなのがじぃんと、こう染み込んでいくような事になるのでしょうけれども。私達の思いの中にです、そういう純粋なものではなくてです。何か他の感情あぁ又あの御理解と思うた途端にです。もうあなた方の心の中は、コンクリートとセメントの上に水を撒くようなものになってくるんです。時間が気になってたまらん。早う帰らんならんから、という様な時に御理解が耳に入るはずがない。そういう様な事をですね。
私咋日十中さんと話をしておる間に感じたんです。信心はなくても今日はほんに、金光様にども参ろうと言うとるとじゃなかったならば、自分達には大難がかかって来とったつかも知れんという、その事がですおかげで所謂助かった。おかげ頂いたという気持ちがですね。それが私が今日は限りなしにこうやってお話が出来る元になっているのではないでしょうかと言うて話しましたら十中さんは確かにそういうものでしょうね。と言うてその事に共鳴されましたんですが。
そのことと私は今朝から朝の御祈念に、この静かな中にです。しかも外には雨の音を聞いて、いよいよ心静かに御祈念が出来る筈なのに、内殿が雨漏りしておると言う事だけでです。御祈念がどうも有難い御祈念にならなかった。もう一遍御祈念をし直さなければならんという気がする。それは私の心の中にですね。そういう感情雨漏りこれはもう本当に、こういう立派ないわば御神殿にですね。
雨漏りの跡が付いたりしたら、こりゃ困ったことじゃあると言った様なものがですね。今日の御祈念が、いわば阻害された。御祈念が神様に通うものを阻害したのだと言うふうに思うのです。どうぞ神様へ向かうのは純粋しかも清められたもの、いや清まらして頂こうと願う心、本気で信心を分からせて頂きたいと願う心。そういうところから私は私共と神様の間の、一つの交流というものが、そういうところから始まってくるのだというふうに思うですね。
どうぞ。